Esercizio Terapeutico Conoscitivo Aichi
「知覚, 実在, 客観性 −知覚的客観性をめぐる現象学と心理学−」
掲載雑誌:科学基礎研究論 22巻(1994−1995)1号
著者:長滝 祥司(東北大学大学院)
読んでみようと思った理由
今年の9月に開催された認知神経リハビリテーション学会学術集会で特別講演をされた田中彰吾先生(東海大学)が身体イメージの役割に関して、哲学的な視座から問題提起をしていた。その話が面白く会場で販売されていた先生の著書「生きられた〈私〉をもとめて」をすぐに購入し読ませて頂いた。またその後、「空間象徴の理論的基礎づけ−身体性の観点から−」という論文にもめぐり逢えた。その他、関連する論文を読んでいく中で実在と主観の在り方とはどういったことなのか。あるいは現象学的考察に客観性はあるのかという疑問を抱き、その疑問を解決する過程で行きついた論文です。
抄録
フッサールが指摘したように, ガリレイ以来発展してきた自然科学によって, われわれは世界や事物を数量化して把握することに馴染んできた。こうした数量化によって, 事物把握が間主観的になり科学的客観性が生じてくる。科学的客観性とは, 個人的で一回的な事物経験が数量化され, 間主観的, 全時間的になることによって成立してきたものである。またそれと相即的に, 知覚され経験される事物は因果的連関のうちにあり, 自然科学が発見した精密な因果的法則に支配されていると見なされる。そこでは, 主観性は因果連関のなかに組み込まれるか, あるいは無視されている。しかし, こうした事態は世界についての客観的, 因果的把握も, 直接的に経験された知覚世界 (フッサールの用語に従えば, 生世界 [Lebenswelt] に基づく認識方法の一つであるということが忘却された結果である。言い換えれば, 人間の生と自然科学とが完全に切り離された結果といえよう。近代の自然科学に範をとる実験心理学も, こうした忘却の上に成立していた。
では, 知覚世界と科学とはいかなる関係にあるのか。フッサールに従えば, そもそも知覚世界とは科学的世界 (科学によって規定される世界) の出発点であり, その基底にあって科学に素材を提供し, その根拠となるものである。つまり, 精密な科学も知覚経験から出発して得られたものである。そうならば, 知覚経験のなかに科学へと繋がる萌芽が看取できるであろう。換言すれば, 知覚経験のなかに科学的客観性の起源が見出されるはずである。われわれの知覚経験が, まったく秩序を持たずきわめて不安定なものであったなら, それは精密科学に素材を提供することなどできなかったと考えられるからである。したがって, その素材とは知覚経験におけるある種の安定性であるともいえる。もちろん知覚経験とは, 身体の運動などによってつねに変動し, 人によって異なることもあるなど, 不安定なものである。しかし, それでもわれわれは, ある事物の見え方が様々に変異するなかでそれを同一のものとして把握し, 身体を同じ場所に置くことによって緩い意味での間主観性も成立する。つまり数量化して把握する以前に, われわれは事物についての安定的な経験を持っているのである。本稿ではこの安定性を“知覚的客観性”と名づける。
本稿の目的は, 心理学の知覚研究において知覚と実在の関係, 知覚における安定性, 客観性の問題がどのように取り扱われてきたかを整理し, 現象学的知覚論との対比をつけることである。心理学からは, 実験心理学の始祖であるヴントと, 彼への批判から始まったゲシュタルト心理学, そして後者の継承者であるギブソンを扱う。また, 現象学ではメルロ=ポンティの知覚論を主題的に論じていくことにする。そして, 知覚的客観性をめぐって, ギブソンとメルロ=ポンティの議論を比較してみたい。もちろん, この二人のあいだに直接的な影響関係があったわけではない。しかし, ゲシュタルト心理学が要素主義を克服したことに対する彼らの強い共感を考えると, 両者を比較することはあながち不毛なこととは思われない。そして, 両者の対比を通じてあらためて知覚的客観性の問題を考察することにより, 知覚と科学の結び目を確認したい。(J-STAGEより一部改変し転記)
感想
現象学、知覚世界、メルロ=ポンティなど認知神経リハビリテーションを学んで行く中で聞いたことのある単語が多く散りばめられており、一見すると難解そうな論文だがどこか親近感を抱くような感じで読み進めていける論文である。ふむふむと思える文章が多くあるが、その中でも『精密な科学も知覚経験から出発して得られたものである。そうならば、知覚経験のなかに科学へと繋がる萌芽が看取できる。」という言葉にはあまり理解していないにも関わらず妙に納得しなるほどと唸らされてしまった。疑問の解決には至らないが解決方法への糸口を教えてくれる論文であり、さらに学んでみようと背中を後押ししてくれるような論文である。
(岡崎南病院 首藤康聡)